10代・20代のころ、50歳を超えてもきれいでいたいなんて、考えたこともなかった。
でも今、私は思う。「きちんと、知的に、セクシーに」そして何より「上品に」生きていたい。
それは、誰かに見せるためではなく、自分自身と、愛するパートナーのために。
そんなアラフィフになった今の私の、美しさの価値観をつづります。
上品でいたい。それがすべての土台
下品にならないように心がける。
人前では、ちゃんとしていたい。
そうすることで自然と“知的”に、“上品”に見えるもの。
そのうえで、ほんのり大人のセクシーさが漂えば、それはもう憧れの女性像だと思う。
やりすぎず、さりげなく。そこにこそ“品”が宿る。
かわいいより、きれい。でも、かわいさもほしい
「かわいい」より「きれいでいたい」と思うようになった。
でも、完全にかわいさを手放すのも寂しい。
知的で「おっ」と思わせる人になりたいけれど、
同時にふっとした瞬間に見える“可愛らしさ”も持っていたい。
キャラじゃなく、自然な形で。
そんなふうに、ちょっとよくばりになった自分が、実はけっこう好きだったりする。
子どもに「おねえさん」と呼ばれる、ちいさな喜び
知らない子どもに「おねえさん」と呼ばれることがある。
それだけでちょっと嬉しい。
疲れた顔のときもあるし、すっぴんで出歩くこともあるけど、
“ちゃんとしている”ことを意識するだけで、不思議と「きれい」はにじみ出てくる。
年齢なんて、きっと“きれい”の基準にはならない。
他人の評価なんて、ほんとうにどうでもいい
愛する人と、自分自身にだけ魅力的でいたい。
それ以外の他人にどう思われようと、正直どうでもいい。
変わってるとか、変な人とか言われても、私の人生には何の影響もない。
むしろ、他人の目を気にしていた頃の自分より、今の孤独な自分のほうが、ずっと成長している気がする。
孤独と引き換えに手に入れた“自分らしさ”
孤独を感じることもある。
でもそれは、自分が成長した証だと思っている。
周りに合わせていた頃より、今の自分はずっと自由で、ちゃんと自分の足で立っている。
50歳からの人生は、「誰かに合わせるため」ではなく、「自分らしく生きるため」の時間。
だから私は、知的で、きちんとして、そして、ちょっとセクシーに──そんな女性でいたいのです。
まとめ
50歳からの美しさは、誰かに見せるためではなく、自分と、大切な誰かのためにある。
きちんと、知的に、セクシーに──そして、いつも上品で。
そんなふうに自分を整えていく生き方こそが、本当の“美しさ”なのかもしれません。
あなたは、どんなふうに50歳を迎えたいですか?
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