死を考えると、なんとも言えない怖さがこみあげてくる。子どもの頃から、時々この「死」という概念に向き合ってきた。聖書を読み、哲学に浸りながら、自分なりに死や生きる意味を探してきた。今の私は、人生をどう捉えているのだろう?行動すること、選択することが人生を創るのだと感じるようになった。死ぬまでに何をするか、そしてどのように生きたいかを考える記事にしてみました。
幼い頃の「死」への恐怖
小学生の頃、ふと「死んだらどうなるの?」と考えたことがある。私たちはなぜ生きているのか、死ぬために生きているのかと、素朴な疑問が浮かんだ。ある日、神にすがりたい気持ちで聖書を開いたけれど、すぐにその答えが見つかるわけもなく、「結局、何が正しいんだろう?」と思い、やがて聖書を手放してしまった。その頃の自分には、まだ「信じる」ということも難しかったのかもしれない。
哲学者たちとの出会い
大人になるにつれ、ドストエフスキー、サルトル、そしてカミュといった哲学者たちの本に触れ、彼らの考え方にどこか惹かれた。彼らもまた、「生きる意味」や「死」という重いテーマに悩み、葛藤していたことに共感したからだと思う。例えば、サルトルは「自由」に関して悩み、カミュは「不条理」を語った。こうした哲学者たちの言葉を通じて、「自分が選択することで人生はつくられる」と、なんとなく感じ始めた。
「我思う、故に我在り」からの展開
「我思う、故に我在り」という有名なデカルトの言葉は、私にとって「考えることが生きている証」だと教えてくれた。でも最近は、考えるだけでなく、「我行動する、故に人生はできる」と感じるようになった。自分で選び、行動することで自分らしい人生が形作られる。それこそが、今の私の信条だ。自分の行動が、未来を少しずつ変えていくのだと。
死にたくない、でも生きたい
「死にたくない」。この気持ちは、単に「怖い」という以上に、まだまだやりたいことがあるからかもしれない。85歳くらいまで、できる限り元気に、夫と一緒に生きて、最期は穏やかに「ポックリ」いけたら最高だと思う。人生の終わりを迎えるにあたって、自然にこの世を去りたい。そしてその日が来るまで、できる限りのことをして、心ゆくまで生きたい。
行動し続ける限り、人生は続く
「私は考える、故に人生はできる」。いや、今の私にぴったりなのは「私は行動する、故に人生はできる」かもしれない。行動し続ける限り、人生の可能性は広がっていく。未来を決めるのは自分で、行動ひとつひとつが人生をつくっていく。だからこそ、死のことを考えつつも、今を生きることが何よりも大切だと感じる。
まとめ
死を考えることは避けられないが、それでも生きている間に何ができるかを考え、行動していくことが大切だ。行動こそが人生を形づくり、選択によって人生の意味が生まれる。そう考えると、死への恐怖も少し和らぐ気がする。最後まで、自分の意志で生き抜くことこそが私の望みだ。そしてその日が来るまで、今を大切に、心から生きていきたいと思う。
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